自分の人生どうすればいいかよく分からなくなってしまった人へ

自分だけで自分の人生を決めようとしてもかなり難しいです。人類全体の方向性が分かると自ずと個人の方向性も見えてきます。

人生どうすればいいかよく分からなくなってしまった人へ

わたしも人生がどうすればいいかよくわからなくなってしまったことが何度も何度もありました。

そのたびに、新しい仕事を見つけては今度こそもうこれで大丈夫だと、何度も自分に言い聞かせていました。

でも、時が経つにつれ仕事が億劫になり、マンネリしだんだんと行きたくなくなってくる。

そして、仕事を辞めてまた新しい職場で頑張る。そんなことの繰り返しでした。

しかし、ある時もう、それにも飽き飽きし、すべてが嫌になりました。

もう本当に嫌になり、いつ死のうかと家で考えていたとき、「セドナメソッド」という本と出会い、自分の内面と向き合うということをし始めました。

いままで、自分の内面と向き合うということをほとんどしてこなかった私は、その凄さに驚き、自分の本当の気持ちに気付き始めました。

それからというものの、新しく気づくことが多くなり気持ちも安定していきました。

それから3年後くらいに観術と出会うのですが自分の心のことに関心をもった私は、観術の凄さを明確に知りました。

大きな喜びを得るには

大きな喜びを得るには
やっぱり本音をアウトプットすることだね

自分が心の底から思っていることを伝えれば
必ず相手はそれに応えてくれる

その反応がどうであれ
本音を言えたということが
それだけで大成功なんだ

本音を言っていくこと
それだけで人生の充実度は
だいぶ変わってきます

本音を言えばちゃんと
それに見合った形でそのまま
帰ってきます

そこに寸分の狂いもありません
この世界に偶然の要素はありません

永遠に終わらない知

知るということは永遠に終わることがない
何かを知ったと思った瞬間
また別の何かを知りたくなる
永遠に終わらない知
永遠に終わらない問い
わたしたちは何かを明確に知ることはできない
無知の完全性
人間は明確に知ったと思った時から
知の不完全性にはまり込む
無意識に自分が絶対だと思い込む

人間は何かを知ったと思った瞬間から
人をジャッジする

自らの不完全な知を基準にして
人をジャッジする

自分の知が不完全だということも知らずに
人をジャッジする

不完全な知
不完全な基準点

ひとりの人間が絶対的に正しくなることは一生ない。あなたの知が永遠に完成しないのと一緒で

わたしたちは無意識で自分の判断基準が
絶対的に正しいと思ってしまう

永遠に知が完成することはない
永遠に未完成
故に終わりなき旅をする

どうせならつまらないことを知るより
もっとワクワクするようなことを知りたい
もっともっといままで思いもよらなかった
新たなる未知に出会いたい
知らないということがどれだけの可能性を秘めているのか計り知れない

未知なる自分に出会いたい
未知なる愛に出会いたい

何かを「知った」と思った時
あなたの知が完成したと思った時
あなたは知の罠にハマりこんでしまう

自分の知を人に押し付けるか
人の知に自分を合わせるのか
それともお互いの知を融合して全く新しい
知を誕生させるのか

わたしたちは永遠に
男がなんなのか知ることができない
女がなんなのかを知ることができない
人間がなんなのか知ることができない
宇宙がなんなのか知ることができない
永遠に終わらない知のなかに生き続ける
永遠に終わらない問いのなかに生き続ける
問いを発見することはわたしたちそのもの
さらにさらに心が躍るような問いを発見し続ける

知ったら終わってしまう
でも人間は何かを完璧に知ろうとする
だけど永遠に何かを知りきることなんてできない故に永遠に知り続けることができる

何かを知りきることができないのなら
自由に好きなように解釈すればよい
これが認識
認識できるものしか現実には現れない

戻るところはいつだって無知
戻るところがあるから安心して旅に出れる

問いを探す旅
自らを探す旅
問いは自らを知る手段

【対立構造でなく融合を】

最近、気づきました
やはり今までの人類歴史は対立の構造からどうしても抜け出ていなかった。

今わたしがやっている観術も次元上昇した新たなる観点の獲得を案内してますが、正直あんまり腑に落ちていなかった。でも、最近これが今日、腑に落ちたな〜と思ったんです。

今までの人類歴史は意見と意見の対立、もしくは強い者が弱い者の意見を制圧するかたちでしか、人間の統制をとることが出来なかった。しかし、観術ではこの意見と意見(観術では観点と観点といいます)を対立構造で見るのではなく融合してまた新たなる次元上昇した観点の獲得をするための材料。今日、これが腑に落ちたな〜と思ってブログに書きました。

今までの対立構造でのものの見方では、結局争いしか生まれませんが、お互いの観点が、本当に尊いものとして扱われ、融合することにより全く新たなる観点を獲得出来る。そこにこの観術の凄さがあると思います。

時代はもう対立の構造を求めてはいません。対立ではなく融合を。新しい次元の社会を共に創っていきたいですね。

最初の一歩がまず肝心

僕もこの観術に出会う前はやはりずーっと寂しい思いをしていて、仕事から帰っても一人だし、休みの日も一人で過ごすし、とにかく仕事以外の関係性がほとんどなかったんです。

仕事場で仲間と話す内容は確かに楽しいは楽しいんだけど、果たして本当に自分が興味あることを話せる人はいるかといったら、いなかったと思う。でも、どうしたらそういった話が出来るのか?そういったことに興味がありそうな人はネット上とかにたくさんいるけど、自分はそういう人とは釣り合わないと思って敬遠してたのかな?
とにかく新しく人と会うということが怖かったんです。

自分は18歳の時から人生諦めてしまって、でもどこかで諦めきれずに、色々と努力はしてきましたね。本読んだり、ネットで色々な精神的なもの調べたりして。でも、やっぱりしっくりくるものはなかった。あったとしても一時的。その時だけなんですよね。

でも、ある日フェイスブック見てたら、なんか会ってみたいなって思う人がいて、ちょっとキレイな人だったんだけど(笑)
その人になんだか会いたくなって、色々悩みながら、一旦キャンセルしたりもして、でもやっぱり会ったほうがいい気がして、凄い勇気出して会ったんですよね。すごく場違いな気持ちをものすごくもちながら。

でもこの小さな一歩、でも自分にしたら大きな一歩が後々、ものすごい変化をもたらすんですよね。

今になって思えば、本当に人との出会いがすべてを変えるんだなって。

最近見たフェイスブックの記事に
「10年間努力するより、1日勇気出す方が人生変わる」っていう記事みて本当そう思うんですよね

わたしがやってる観術創始者のNoh Jesuっていう人(のちのち紹介すると思います)も
「失敗っていうのはチャレンジして出来なかったことではなくて、チャレンジしなかったことが失敗なんだ」ってよく言ってます 

本当に最初の、でも一番大きなエネルギーを必要とする最初の一歩を踏み出すことが、自分の頭の中でグルグル考えるよりもずっとあなたの人生にとって大きな変化に繋がることは身をもって保証しますよ

わたしは誰に語りかけるのか?

わたしは誰に語りかけるのか?


それは今、自分の人生に途方に暮れていて何をどうしたらいいのか分からない。そして解決策も何が問題なのかも分からないといった、かつての自分のような人たちに語りかけたいです。


自分も人生の方向性も分からず、なにをどのように変えたら自分の人生が大きく変わるのか?そればかり考えていました。


目的もなく方向性も分からず、自分が何故ここにいるのかも分からない。

ただ根無し草のように、誰かが自分に水を与えてくれるのを待ってるだけ。


そんな自分に嫌気が差しながらも、ただ流されるままに社会に合わせて生きる。


本当はこんな生き方がしたいとはちっとも思ってなんかいないのに気づいたら、誰かが言ったことにただ従って生きるだけの人生。


わたしは一体なんのためにここにいるのか?

わたしは一体なにをやっているのか?


自分がやっていることすら自分で説明出来ない状態。自分の本当の気持ちすら分からなない。


もうどうしていいか分かんない!誰か助けて!


そんな人に語りかけていきたいと思います。